経済: 2008年5月アーカイブ

 今から時計の針を10年ほど巻き戻した1997年11月、日本は未曾有の金融危機に足を踏み入れた。銀行の破綻が都市銀行までに及び、4大証券の一角、山一證券が自主廃業するに至って、国際金融市場は日本の金融界全体に強い不信感を抱き、海外勢は資金を容易に出さなくなった。

 野村ですら、例外ではなかった。野村社内でもあまり知られていないことだが、山一破綻ショックで米国野村の資金調達が困難になり、資金繰りが詰まりかけたのである。

 このとき、財務を取り仕切っていたのが、まだ取締役にも昇格していなかった主計部長の渡部であった。実は、彼のチームはその半年ほど前からこうした非常時に対応すべくコンテインジェンシープランを立て、予行演習を行っていた。

 苦心して世界の各拠点からカネをかき集め、米国に送金して窮地をしのぐと、彼は、当時の金融界では異例の行動に出た。郵政省に出向き、郵便貯金、簡易保険局が保有する日本国債を無担保で賃借し、レポ市場で売却、資金を調達したのである。

 レポとはリパーチェス・アグリーメントの略であり、特定日にあらかじめ合意された利率で買い戻す条件で国債などを売却し、即時利用可能な資金を取得する取引である。

 資金の調達難は容易には解消しそうになかった。そうであれば、可能な限りキャッシュを確保しておきたい。野村が保有する国債をレポに出すだけでは不十分だ。その規模をはるかに超えて調達する方法はないか。

 現在、国債の貸出は自らの資産の健全さに直結するため、いずれの金融機関も審査は融資同様に厳しい。だが、当時は会計基準も異なっていてそれほど厳格ではなく、郵貯、簡保にとっては、いわば非稼動資産であった。そこに目をつけた斬新な発想と、手数料だけで無担保賃借を成功させた行動力、交渉力は、コンテインジェンシープランを用意していた周到さと併せて、「野村を救った」(旧首脳)渡部の能力の核を成す。

 翌年の98年8月、ロシア危機を引き金となって、野村は米国のCMBS(商業用不動産担保証券)で巨額の損失を計上、2000億円以上の最終赤字に転落した。その結果、証券会社の健全性を示す自己資本規制比率が急低下した。

 おまけに、系列ノンバンクの野村ファイナンスの不良債権が拡大し、1兆円近い損失処理を迫られた。資本が大きく毀損した。資金調達が困難になる流動性危機に加えて、資本不足の危機に襲われたのである。格付けは急落した。現在からは想像もつかないことだが、野村は経営危機の只中にあった。

 最前線の指揮官が取締役に昇進していた財務兼審査担当の渡部だった。こうした事業の撤退(CNBS)や会社の破綻処理(野村ファイナンス)につながるような巨額の損失処理は、入念な準備と迅速な実行を必要とする。彼はそれを十分に理解していた。スキルも積んでいた。その4年前、第一次の野村ファイナンス危機を特命部長として処理を取り仕切っていたからである。 

 彼は細心を払って損失処理計画を詰める一方で、当時のさくら、三和、興銀の3銀行それぞれに1000億円ずつ劣後ローンを要請、さらに第一勧業銀行、大和銀行などにも広げた。巨額の資本増強策で、資本不足の窮地を切り抜けようとしたのである。

 当時の銀行は、揃って巨額の公的資金による資本注入を受けていた。不良債権の抜本処理あるいは信用収縮解消のための公的資金を野村に回すのかといった批判に、過敏になっていた。それでも、各行は応じた。証券界を巻き込んで再編機運が高まっていた当時、各行にしてみれば野村は極めて魅力的な対象であり、少しでも距離を縮めたかった。その競争心理を巧みにあおった、したたかな交渉だった。その中心に、渡部がいた。渡部は野村の危機の実相を、誰よりも知り尽くしているのである。

 一方、90年代末の財務危機を脱するにつれて野村は2つの目的から新しい経営の器を必要とした。第1に市場の変化に戦略的かつ機敏に対応して収益を拡大するため、第2に高い経営規律を保つためである(損失補てん事件、総会屋事件に続く第3の反社会的事件は絶対に避けなければならなかった)。

 新しい経営の器作り――持ち株会社によるグループ会社と事業の再編、委員会等設置会社への移行、内部統制基準が厳しいニューヨーク証券取引所への上場、日米欧のリスク管理体制の導入――渡部は時にトップから命じられ、時には先回りをして提唱し、有能な補佐役としてこれらの新経営体制の理論を組み立て、実務を切り回した。

 渡部は時々、おどけて「また遊んでいるところなんだ」と言うことがある。それは何か新しい分野――例えば、上記のコーポレートガバナンスや一時担当していたコンピュータ・システム――を手がけていることを意味するのだが、彼は短期的に集中して勉強し、要所をついた知識を習得することが得意かつ面白いらしい。

 渡部はこの10年間、財務危機を乗り切る豪腕、新しい絵を描く論理的構想力という2つの能力を発揮してきた。ただし、それはあくまで黒子としての振る舞いであった。

 時のトップの傍にあって改革の鋭いナイフを振り出す、つまり、ナンバー2としての凄みと怖さが、社内外に刻印されてきた(もっとも、トップにとっては実に頼りになる懐刀だが、耳に痛いことを過剰なまでに口にしたから、とうてい可愛げのある部下ではなかったろう)。

 つまり、彼の実績も立ち居振る舞いも、社長候補として評価されたわけではなかった。この3年間、経験のない国内リテールを責任者として担当して成功を収めたが、それでも“渡部社長待望論”はごくごく一部にしかなかった。

 その懐刀のはずの渡部が社長に就くとともに、社長と両副社長の3人が退任、5つの主要部門の最高責任者ほとんどが入れ変わるという新体制が発表された3月3日、社内外に衝撃が走った。一体何があったのか――。

 だが、サブプライム関連の損失が予想を大幅に上回る2600億円に達し、9期ぶりの最終赤字に転落、おまけに劣後債、劣後ローン合計3000億円を調達する計画を進めているという発表が行われてからは、そんな疑問は解消しただろう。

 10年前に類似した修羅場を越え、この10年間とみに増した保守性を打ち破るには、野村の危機をすべて知り尽くした懐刀に、トップとして経営を委ね、改革を託するしかなかったのである。(敬称略)


(引用:ダイヤモンド・オンライン)

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